「今日はラーメンを食べました」…その日記、誰が読みますか?真面目な院長ほど陥る、寿命を削って「ゴミ記事」を量産する恐怖のメカニズム
午前1時52分。
ノートパソコンの排気音が、耳鳴りのように深夜の静寂を切り裂いている。 ブルーライトに照らされた僕の指先は、まるで血の通わない死人のように青白い。
さっきから、もう一時間。 僕は「今日、何を食べたか」について、数行の文章を書いては消している。
「今日は久しぶりに、近所のラーメン屋へ。スープが体に染み渡りました!」
……馬鹿げている。 本当に、震えるほど馬鹿げている。
昼間、僕は「先生」として、何人もの人生を救っているはずだ。 杖をついて来院した老人が、僕の手技によって、帰りには自分の足で一歩ずつ地面を踏みしめて帰っていく。その背中を見送る時、僕は確かにこの仕事に誇りを感じている。僕の技術には、間違いなく価値がある。
でも、夜になり、この四角い画面の前に座った途端、僕はただの「無力な迷子」に成り下がる。
集客のためにはSNSが必要だ。ブログを書かなければならない。 そう誰かに教わった。だから、僕は真面目に、律儀に、睡眠時間を削ってキーボードを叩いている。
ネタがないから、とりあえずランチの写真を載せる。 親近感を持ってもらうために、週末の出来事を綴る。 それが、自分の寿命を1分ずつ、シュレッダーにかけて捨てている行為だとも知らずに。
残酷な真実を教えよう。
あなたが「親近感」という免罪符を盾に垂れ流しているその「ラーメン日記」は、読まれないどころか、一記事ごとにあなたのプロとしての信頼を殺している。
想像してみてほしい。 激痛で夜も眠れず、スマホを握りしめて必死に治療院を探している患者が、あなたのサイトに辿り着く。 そこで「ラーメンが美味しかった」と笑うあなたの写真を見た瞬間、彼らはこう確信してページを閉じる。
「ああ、この先生は私の痛みより、自分の空腹を満たすことの方が大事なんだな」
たった一行の無意味な日記が、あなたの「ゴッドハンド」をスクリーンの向こう側で窒息死させる。 なぜ、僕たちはこんな惨めな「寿命の浪費」を繰り返すのか? 理由は明確だ。僕たちが「客を動かす正解の地図」を持っていないからだ。
地図を持たない努力は、努力ではない。ただの「遭難」だ。 そしてその遭難の果てには、逃げようのない「3つの末路」が待っている。
信頼の完全喪失: 「専門家」ではなく「暇な人」だと思われ、単価を叩かれる。
資産のゼロ化: 100記事書いても、あなたが寝ている間に予約を獲ってくる「自動装置」にはならない。
肉体の破滅: 発信で睡眠を削り、体調を崩して倒れた瞬間、すべての収入が「即、ゼロ」になる。
特に3つ目は、最悪だ。 僕たちの仕事は、残酷なまでに「労働集約型」だ。 僕がベッドの横に立ち、手を動かさなければ、1円の売上も生まれない。
もし明日、僕が倒れたら? もし、この過労が祟って、右手が動かなくなったら?
その瞬間、家族の食卓から笑顔が消える。 貯金は一気に底を突き、住宅ローンの督促状が届く。 何より残酷なのは、昨日まで「先生」と慕ってくれた患者たちが、翌日にはケロっとして、隣の競合院の広告に「いいね」を押している姿だ。
その時、僕が今まで書いてきた「ラーメン日記」が、僕の代わりに1円でも稼いでくれるだろうか? 入院費を払ってくれるだろうか? 娘の学費を、肩代わりしてくれるだろうか?
答えは、NOだ。
ゴミをいくら積み上げても、それはゴミの山にしかならない。 資産にはならない。僕を守る防壁には、絶対になり得ない。
僕たちが今、本当に書かなければならないのは「日記」ではない。 インスピレーションなんていう不確かな魔物に、人生を預けてはいけない。
「Aを見せて、Bを語り、Cという感情を抱かせる」 そこには、解剖学と同じように、冷徹で厳密な「型」が存在する。 その型を使い、僕という人間を「デジタルの世界に複製する装置」を作ること。 それこそが、自分自身を、そして大切な人を守るための、治療家としての「最後の責任」だ。
窓の外では、新聞配達のバイクの音が聞こえ始めた。 もうすぐ、また「一人の体が資本」の、命を削る一日が始まる。
僕は、画面の中の「ラーメンの記事」を、すべて選択して消去した。 BackSpaceキーを叩く音が、静かな部屋に空虚に、でも決別するように響く。
地図を手に取らなければならない。 そうでなければ、僕はいつか、このキーボードの上に突っ伏したまま、二度と起き上がれなくなる。
その時、僕の指先には、何も残っていないだろう。